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2011年6月 1日 (水)

テレビ局に問い合わせ

出発の前日、すいせんの咲いた場所をテレビ局に訊ねました。仙台の蒲生と言うところです。差し出された方は佐藤さま。避難所は宮城野体育館。
これだけの情報で出かけます。

インターネットで調べたらよいとか、皆さまは簡単に思うかもしれませんし、私に言ってくれたら調べてあげるのに…などと思って下さるのは有り難いのですが、それは私の忙しさの実態をご存知ないからだと思います。私もそうしたいのですが、本当にそんなことすらできない毎日を過ごしています。一緒にいて見て下さればおわかりいただけるのですが……。

福島のHさんは、そんな私を察して、ユンケルに加えて、東北の地図を買って置いて下さいました。

この地図は宝ものとなりました
ボロボロになるほど活躍してくれました。


蒲生はサンドべージュの瓦礫の 町と化していました。高速を降りて見渡すと、海辺の町は、一見、すべてが砂浜かと見紛うほどに、ほとんど平らなところに、ぽつんポツンと、大きな建物が確認できました。

今走っている道のあちこちに、自動車がペシャンコになって集められているところもあります。

海に向かい走ると、平らな浜辺に見えたところは、住宅地と分かり、細い道の両側に、傾いたり、粉々になったり、ガラスだけが打ち破られたり、家の形だけはとりとめたと言う残骸の住宅地に、重機がはいり、瓦礫の町にどこから手を付けてよいやら困惑しながらも、そこかしこで動いていました。

車から降りて見渡すと、先ほど遠見には平らな浜辺に見えた景色は、実は住宅地の人の生活空間だったことがわかり愕然と立ちすくみました。
更に近づくと、 家の土台だけが残り、ここは玄関かな、ここはトイレだったのかな、居間だったのかなと、見て取ることができます。
更に歩みを進め、かがんで見ると、お皿やカップ、アルバム、植木ばち……、その瞬間までの日常が読み取れ、人の談笑がや息づかいが感じられる空間だったことにきづかされ、遠くから見ただけではわからないひとつひとつが、ここに来て初めて、想像でない、現実として見えました。

再度、目線を足元から離し全体を見回すと、ここには、たくさんの人たちが近所付き合いをしながら暮らした、生活の場のひとつひとつの集まりへと広がって感じられます。決して、浜辺なんかではなく、たくさんの人たちの生活空間だったことがパノラマのように私をとりかこんで広がっています。

作業をする人たちの他には人は誰もいません。

「宮城野体育館はどちらでしょうか?」と聞いても分かるはずもなく、ジープはぐるぐると同じ辺りを回ります。

ここに避難所があるわけもないことに気づき、宮城野地区の学校を探してみることにしました。

迷って迷って漸く宮城野に学校を見つけました。

鶴巻小学校でした。訊ねた先生はとても丁寧に道を教えて下さいました。

学校の体育館ではなく、所謂、アリーナと呼ばれる大きな施設だと教えて下さいました。

「こちらの学校はご無事で何よりでした。」と申しあげますると、「建物は大丈夫ですが、子どもたちの半数は、家を流され、親をなくしています。子どもたちも流されたり行方不明になっています」思いがけないお返事でした。

大丈夫にみえた学校の実際を目の当たりにして、ただ走っているだけでは、なにも見えてこない恐ろしさを知りました。

「先生、私は原爆からひと月で咲いて、広島の人たちに復興への希望と勇気を与えたカンナの花を世界中にリレーさせている橘と申します。今回はそのカンナを植えて頂き、育て、咲かせることにより、元気をカンナからもらって頂きたく、一日も早い復興を願う者です。よろしければ、カンナを植えて下さいませんでしょうか…」教頭に伝えて来ますとその先生はおっしゃいました。教頭先生がいらして「こういうものを待っていたんです。」とおっしゃって頂き、植える場所も早速用意下さいました。
あんなに躊躇したカンナ植栽、「こういうものを待っていてた…… そうなんですね。 そうなんですね

私も勇気を頂きました。 学校を訊ねみよう! そう思える力を下さいました。ありがとうございました。必ずまた、参ります。子どもたちにカンナの話しをしに参ります。 必ず!

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